(2025-05-19)
電車から降りて、自宅までの帰り道を歩いて帰る。
サクサク歩こうと勢いよく道路に足を踏み出した途端、体に異変が起きた。
ううう、左胸と脇の間のあたり(胸筋かな?)が筋肉痛のように痛い。
普段は「お胸」のトレーニングなんかしないので、どうしてなのかしらと考える。
あ、わかった。
左半身で重い荷物を運び過ぎていたんだ。
本を4冊もカバンに入れ、しかもそれらを収納しているバッグを左肩に掛け、さらに2リットルのペットボトルが入った袋を左手で持ち、それをここ最近ほぼ毎日繰り返していたおかげで、私の右半身のほうは快いほど「宙ぶらりん」になっていた。
我の肩ながら、見事なアンバランスさである。
ついに、今日は帰り道で歩くたびに左肩がゴロゴロと悲鳴をあげ始めた。
左肩さん、すんません。明日からはしっかり休ませます。
と書きながら本題に入る。
実は先日、私の知り合いの女性で「私の周りは結婚している人が多いけど、何人か離婚している人がいるの。でもね、なんか離婚している友達はみんなすごく生き生きしてるのよ。自分のやりたいことをどんどんやってるって感じで」と女子会の内容めいた情報を教えてくださった方がいた。
なるほど。最近の結婚生活を長く経験された女性の中には、離婚すると生命の息吹を感じさせるような人がいらっしゃるようである。
その女性の話を聞いた日の夜、イジチもそろそろ「結婚生活」について勉強してみようではないか、と意気込んでネットで本を探していた。
すると不思議なことに今回読んだ『離婚』という昔の小説がヒットしたのである。
ネットで注文して、その本が土曜日(一昨日)に届いた。
文庫本と単行本が同時に届いたので、文庫本のほうを先程書いた女性に渡して読んでもらうことにした。
そして私は日曜日(昨日)、『離婚』(色川武大著、文藝春秋、昭和五十三年)を読んだ。昭和五十三年は西暦に直すと1978年だから、この小説は今から約47年以上も前に書かれ、それぞれの短編が一冊にまとめられたものが単行本となり、当時(本として)産声を上げたということになる。
まだ最後の第四話までは読み終わっていないが、第一話の表題作「離婚」は読み終わった。個人的にはかなり面白く読めただけでなく、本当に「結婚生活とはいかなるものか」についての知見のようなものが所々の描写に散りばめられているような気がした。
しかしながら、私はまだ「結婚生活とは何か、それはいかなる様相を帯びているのか」がよくわかっていない20代の青年であり、現在はニワトリの側ではなくヒヨコ側である。
このブログの読者は(私の把握している限りでは)私よりも人生経験が遥かに多い紳士淑女であるものの、さすがに今回はここから先で述べられる私の勝手な「暴論」を読んで気分を害される御方が続出するかもしれない。
私も今この文章を書きながら、「数十年後に自分がこの文章を読んだら『若造のくせに何言ってやがんだ』と間違いなく言うだろうな」と思っている。このことに関しては、なぜか「まだ到来していない」はずの数十年先の光景がリアリティを増している。
まあ、よく考えてみれば「何を偉そうに」と言われるような時期であったとしても、その時に現時点での自分の考えを何も書かないよりはこのWeb日記に書き留めておいたほうがいいだろう。こういう内容をブログにアップする理由はの一つは、「私の主張がいかに正しいか」を示すためではなく、「どれだけ己の知見が間違っているか」を確かめるためである。私が自分一人で「つまらなぬ持論」を手のひらであれこれといじくり回すよりも、読者から間違いを指摘してもらってそれを修正していくほうが私にとっても私の身近にいる者たちにとっても良いだろうと思うからである。少なくとも、数十年経ってから「あの時はこう思っていたのだ」というような「せこい」後出しジャンケンの一手を出して、それを自分よりも知識のない若造に対して「何を偉そうに」と偉そうに言い立てるよりは「まし」だろう。
私は自分の書いたものを「へ、こーんなこと書いちゃって」と思われるのはまことに結構であるのだが、数少ないフレンドリーな読者には「私にはどうしてもわからないこと」は教えてほしいと思っている。(この先を読んだ皆さん、そういう訳なのでよろしくね。)
いけないいけない。
なぜか最近は文章の途中でこういう「おじさん」の、いや「おばさん」口調になってしまう。最近私と談笑した10歳以上も年上の「お姉さん」よりも、さらに10歳以上も上の「おばさん」になってしまいそうだ。
あー、やだやだ。
どっかの「井戸端」でくだらない「会議」をしている奥様たちとは一緒にされたくはないですこと。
少なくとも、わたくしは自分が思ったことを「ぺちゃくちゃ」しているだけじゃなくて、そう思う根拠を「坊や」でもわかるように言い換えたり、自分が言いたいことを既に説得力のある論理で述べている他者の言葉を引用しながら、「簡単なこと」をひとこと述べているだけですのよ。どっかの誰かさんみたいに、「先人の教え」や「あの本」に書いてあることを「これ、私が思いついたことなのよ!」みたいな見苦しい言い方では決して言いませんわ。みっともないものね。だいたい、そんなにキレイでもない奥様や女同士で群れてばっかでパッとしない独身女に限って「ねぇねぇ〜、ちょっと聞いてよ〜。前から私思ってたんだけどさ〜、・・・(ゴニョゴニョ)」ですものね。まあ、似たもの同士で「お楽しそう」なので、それはそれはなによりですこと。わたくしのほうは遠いところからその情景のほどを「微笑ましく」て「温かい目」で見守っておきますわね。(あ、万一わたくしの助けが必要ならいつでもお声掛けくださいね。わたくしは「困ったときは、お互い様よ」と常々思っておりますので。どうぞおおきに。)
このままおばさんトークを続けていたら、さすがにどっちが本題なのかがわからなくなりそうなので話を戻そう。
離婚の小説の話だった。
小説を先に読み終わった彼女から、メッセージで「第一話のお話、読み終わったよ!」と報告が来た。どうやら喫茶店で読んでいたらしい。
むむむ、読むのが早いな。
そんなにスイスイ泳ぐように読めたということなのか。
「第一話、もう読み終わったんだね!面白かった?」と聞くと、「なんか不思議なお話だけど、語り口が面白くて読みやすかったよ」とのこと。
不思議なお話、なのね。
読んでてスカッとしたり、共感したり、というよりは不思議さの印象が強かった感じなのかしら。
彼女にそのことを聞くと「うん、一言でいうと、不思議なお話、不思議な男女の関係っていう印象が強かった。読んだらイジチくんの感想も聞かせて!」とのこと。
もちろん、私もさすがに読まぬわけにはいくまいと心を定め、自宅の家事仕事を脇に置いてその小説を読むことにした。「紳士は、決して女を待たせてはいけない」のである。
以下に、私がこの本を読んだ直後に彼女に送った感想を(ほぼそのままの形で)掲載する。
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〇〇さん、今『離婚』の第一話を読み終わりました。
ちょっと眠くなっちゃったので、感想を簡単に(適当に)書きますね。
【「離婚」の感想】
この話は夫側と妻側それぞれの視点に立って解釈するとすごく面白いかも。(それはまた今度ブログで書くね笑)
イジチはまだ結婚生活の経験がないけど、(自分とは生まれも育ちも違って、理解できないことも多々ある)他者と共生する能力を自分で開発していくことが、結婚生活をうまく活かせる秘訣なんじゃないかなと思ったよ。その能力は「結婚してから」開発され始めて、日々パートナーのことをよく見ていないとその夫婦関係が良くなるような「資質」は身に付かないから、夫婦関係を良好に保つためにも「思いやり」が必要なんだなって思いました。(まあ、結婚する「前」だけじゃなくて、結婚した「後」の数十年も大切なんじゃないかな、とイジチは思った次第です。)
この「離婚」を読みながら思ったのは、この話で描かれているような不思議は関係は夫婦関係だけじゃなくて「自分たちの身近な人間関係」にも似ている部分があるなと感じたよ。似てると言っても、その二人の関係性が「その二人だけにしかわからない」ような「不思議さ」という意味でだけどね。(まあ、生まれも育ちも全く同じ人間はこの世にいないから、「その二人の関係性」もその人たちの間の固有のものになるということかな。)
あと、やっぱり夫婦ごとに「幸せの形」はそれぞれで、結婚生活の実情に関してはその夫婦じゃない人たちからはわからないことが多いのかなと思いました。
最近読んだ別の小説の中で、男性の登場人物が主人公の女性に対して「もし君が独身か離婚してたら、僕は間違いなく君にプロポーズして結婚してた。たぶん、君が「え〜、どうしようかな」って駄々をこねても無理やり結婚してると思う。そして、結婚後も二人で結婚前みたいなデートを、子供に隠れてこっそりしてると思う」と好意を伝えるシーンがある話があったんだけど、こういう状況での男女関係も『離婚』の話で出てくる男女の関係性と同じように「当事者にしかわからない」ことが多いのかなと感じました。
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と、「それっぽい」感想を書いたものの、個人的にはこの「離婚」の登場人物の気持ちがわかるような・わからないようなといった「フィフティ・フィフティ」な読了感だった。結婚生活が長い人がこの本を読んだ感想をもっと聞いてみたいものである。
ここからは、勝手な私見を述べる。
私は、小説(特に、主人公に共感ができないような小説)を読む意義は「その当事者の視点で世界を覗くことができる」ということなのではないかと思う。世の中には自分にとっては理解しがたい人たちが(たくさん)いるけど、そういう人たちと今後どこかで万一コミュニケーションをとらないといけないような状況になったときに、小説を読む習慣のある人はその「理解しがたい、共感できない主人公の視点に立って読んだ経験」が活きてくるのではないかと思う。もちろん、こういう小説を読んだ「成果」は目には見えづらいし、実感もしづらい。けれども、小説を読んで自分なりの視点で読んでなんらかの知見を得たり、目の前に提示された物語を味わって愉快に読める人や楽しんで読める人は長期的には「自分が自覚できない場所」である当人にも預かり知らぬところで「成果」が出ていることが多いのではないだろうかと、イジチは思った次第である。
ここからは話が飛んで、現実世界の「離婚」の話。
ここ数年のニュースで離婚に関するデータを見ると、日本では結婚したカップル三組のうち一組が離婚している状況らしい。
私がこれまで読んだ本に書いてあったデータと合わせると、昭和の時代から右肩上がりで少しずつその割合が推移している。
ここまで離婚率が増えた原因の一つは、「条件の良い相手と結婚すれば、そのあとの結婚生活も良いものになるだろう」と結婚する「前」に考え過ぎていた人が多かったことなのではないかと思う。
私はこの「良い条件」とは何かが未だによくわからないでいる。(できれば、どなたか私に教えてほしい。)
世間や婚活市場でよく言われる「良い条件」とは、要するに金のことなのか。
うーむ、これまでに私の周りで結婚に関連する話題が出た日には私も一応チラッと考えたりはするのだが、どうもよくわからない。
少なくとも、私の(すごく少ない)経験では、金の多寡は全くと言っていいほど問題にならなかった。というよりも、それはどちらかと言えばハートの問題であるように私には思われる。(あ、結婚生活の経験がないからそんなことはまだわからないのか。)
結婚というのは、今日の私の幼い理解では「生まれた場所も育った環境も異なった二人が一緒に築き上げていく関係」というものである。
多くの人は、幸福に慣れると、いや、馴れるとそれがどんなに美味なものであったのかを忘れてしまう。
今回読んだ「離婚」の小説では、離婚した後になって登場人物の男女がお互いのことを思い出さずにはいられない状況が描写されていた。
「失って、初めてそのことのありがたみがわかった」というのはよく聞く話である。
誰かが「自分が怪我をしたり病気になって、初めて健康のありがたみを知った。お前も気を付けろよ」といって熱心に話すのを他人事だと思って聞けば、「人間は学習しない生き物だな」と思う人もいらっしゃるだろう。
私たちはいつになったら学習するようになるのであろうか。
(2025-05-19)