伊地知のコモンズ=センス

次世代を担う「子供」たちへ


『体験格差』(今井悠介著、講談社現代新書)を読む。
本書は、子供たちにとって「体験」は重要なものであり、その機会を与えることの重要性を社会に向かって訴えたものである。本書の内容のうちの1つとして、経済格差によって「子どもたちの間でどのくらいの体験格差が起こっているのか」が具体的に書かれている。これは社会には認知されていない側面が大きいように思われる。
この本を読み、社会的な実態を把握するということには十分な意義があると思うので、この文章を読んでいる皆さんにもぜひお勧めしたい。

しかしながら、一つ言いたいことがある。
それは、この本全体で言及されている範囲が「経済的な側面」に限られていることである。もちろん、そのこと自体を否定しているわけではないが、じゃあ「お金がない子供たちはどうすべきか」という、その提案がない。半世紀以上前に本書のような内容の議論をヨーロッパの知識人たちが行っていたならば、間違いなくレヴィ=ストロースが(実際にそうだったように)一蹴しただろう。
もちろん、子供たちを社会的にサポートしていくということが必要であることには同意できる。しかしながら、(お金がないという)現状に対して経済的に貧しい家庭や子供たちをサポートしようと思っても、それにはかなりの時間がかかるということも容易に想像できる。(日本における法律だって、これまで現実的に直面してきた社会問題からはかなり遅れて整備されてきた、というのは皆さんにも同意していただけると思う。)
ならば、我々大人が提案しなければならないのは、「お金がない状況でも、いかに子どもたちの成熟を支援するか」についての知恵ではないかと思う。
残念ながら、そのことがこの本にはひとことも書かれていない。間違えないでほしいが、私は「書かれていない」と言っているだけで、本書の内容が「悪い」と言っている訳ではない。
本書では、子供を育てていく上で「各家庭において具体的に(経済的に)どの程度の負担がなされているか」についての定量的な現状も知れるという意味でも(むしろ、これから家族を形成しようと考えている人にとっても)有用な情報が多く掲載されていると思ったので、私は冒頭でこの文章を読んでいる人にも本書を読むことをお勧めした。(特に若い皆さんには、ぜひこの本を手にとってみることを強くお勧めします。)

私は、本書のような「経済格差に起因する体験格差」の議論をするのであれば、必ず「経済的側面以外の解決方法」も議論し、提案すべきだと思う。(大したことじゃなくて、ひとことでもいいんですよ。)
だって、子供たちから直接「じゃあ、僕はどうしたらいいんですか?」と聞かれたときに、我々が「私たち大人が(君に「体験」の機会を与えられるように)なんとかするから、もう少し待っていてね」ということしか言えないのではちょっと恥ずかしいと思う。自分の中に無意識的に成長の根を張っている子供たちであれば、「今置かれた環境で、自分たちにできることは何か?」と考えたり、それがわからなければ近くにいる大人に必ずそういう質問を投げかけるであろう。その子たちは、はたして「大人や社会がなんとかするから」という答えを期待するだろうか。
おそらく、しないだろう。たとえ、彼らが本書『体験格差』を読んで、大人の経済的な事情を十分に理解できたとしても、そのような社会全体としての(経済格差による)体験格差の解決を待ってはいられないだろう。おそらく、痺れを切らして「もう、自分たちでやるしかない」と思い立って(おそらく無意識に)主体性を開花させるんじゃないだろうか。(少なくとも、私はそうだった。)

私は、経済的側面以外の解決方法の1つとして教育がその役割を担えると思っている。なぜなら、教育というものは人類史的には経済が発達する以前から行われてきたのだから。
だから、私は以下の文章で(経済的側面以外の解決方法も議論・提案すべきだと思う人間の代表者として、)次世代を担う皆さんに向けて伝えたいことを書いてみようと思う。
(今回は、文末の口調を「です、ます」にしてみました。)

【次世代を担う皆さんへ】
皆さん、はじめまして。
今回は、私よりも下の世代の皆さん(10代の皆さん)へ、今「伝えたいこと」を文章にして書いてみました。もしお時間のある方は、ぜひ最後まで読んでいってくださいね。

はじめに、20年ほど生きてきた中でわかったことを1つ書いてみます。それは、社会に出てから仕事ができるようになるまでには、すなわち、社会的に十分な敬意を受けるだけの仕事ができるようになるまでには、かなりの手間暇がかかるということです。
もちろん、この「手間暇」というものが、一切かからない仕事もあります。ですが、そういう仕事は「誰にでもできるもの」であり、簡単に言ってしまえば「ジョブスクリプションとしてモジュール化できるような仕事」です。それは、もっと言えば「あなたがいてもいなくても一緒な仕事」なわけです。そういう仕事は、例えて言うなら、無機質な挨拶をして商品を右から左に流してレジを打ったり、どこかに立っているだけでお金がもらえるような仕事です。当然ながら、そういった仕事をしてもらえるお金は「社会的に敬意を受けていない分」だけ少なくなります。これは当然のことなのです。(私もそのようなアルバイトをこれまでたくさんしてきて、散々「こき使われる」という経験をしてきました。今では「いい経験だった」と笑って言えますが、正直に言うと、もうそのような仕事は二度としたくありません。)

なぜここでこのようなことをわざわざ書いているかと言うと、この文章はどちらかというと私よりも年下の年齢、いわば次世代を担う人たちに向けて書いているからです。
そのような人たちのうち、将来的に「社会的に敬意を受けるだけの仕事」がしたいと思う人たちがもしいらっしゃるのであれば、諸君には今通っていらっしゃる学校(あるいは、今置かれている環境)で十分に学ぶことを強くお勧めいたします。当然ながら、これは学校のテストの点数を上げたり、通知表の数値を上げるといった、同じような能力を持った集団内で相対的な優劣を競うということだけには限りません。(このことは、まあ皆さんもよくわかっていらっしゃるだろうけど、一応書いておきますね。)

では、なぜ学校で学んでおくことをこれほど強くお勧めするのか。もちろん、それは私が学校で習ったことを社会に出てから実際に日常や仕事の場面で使ってきて、「こんなふうに学校で習ったことが使えるんだなあ」と実感することがものすごくたくさんあったからなのですが、もう一つ理由はあります。
そのもう一つの理由は、簡単に一言でまとめられるようなものではないので、少しややこしい話になりますが、興味のある方はぜひ最後までお付き合いください。

私は社会に出てから仕事をするようになって、年齢的には「人生の先輩」といえるようなたくさんの人たちに出会ってきました。
ですが、これまで出会った大人をよく観察してみると、色々な種類の人間がいることが分かってきました。その中で一定の割合で存在する、学校で習ったことを社会に出てから使えない人たちは、学校で習ったことをもう1度(今皆さんが学んでいることと同じようなことを)10年後や20年後に学び直したり、小学生でも読めるような自己啓発本を読んで見知らぬ他者にネット上で誇示したり、「ここでは、キャッチやスカウト行為は禁止ですよ」というアナウンスがうるさく鳴っているような路上に堂々と立って(その注意喚起を無視して)通りすがりの人に「この店、どーすか?」と馴れ馴れしく声を掛けて(ときには腕を無理矢理引っ張って)お店に連れ込んだり、不衛生な地べたに「自分と同じような仲間」と一緒に座って無機質な時間を過ごすことになったりしている人が多いようです(あくまで、私の個人的な印象ですが)。
皆さんは、そのような大人になりたいですか?
僕は、皆さんと同じぐらいの年齢のときには「絶対に、そのような大人にだけはなりたくない」と強く思ってきました。(だからといって、東大に受かるぐらいの学力は身につけられなかったですけど。)
今学ばないで放り出した鋭い棘を持ったブーメランが自分のところに帰ってきたときには、当のご本人が「あれ、投げたときはこんなに棘って鋭かったっけ?こんなにキャッチするのが大変だったっけ?」と思うことが多いと私は思います。その棘は、本人が投げたときにはまだ小さかったのです。しかし、自分のところに返って来たときにはその棘自体も大きく成長してしまっていた。ただ、それだけのことなのです。
どうせ数十年後に「同じこと」を学び直すことになるのなら、今の皆さんのような若い年齢のときから「学ぶ習慣」というのは身に付けておいたほうがいいですよね。もし、この文章を読んでいる皆さんが学校に通っていらっしゃるなら、学校の先生の言うことは必ず聞いておいたほうがいいです。自分が「この人から学びたい!」と思った先生や自分のことを熱心に指導してくれるような大人が身近にいらっしゃるなら、その人はとても幸運です。その人のもとで、徹底的に学ぶことを強くお勧めいたします。もし周りにそのような大人がいない場合は、自分で「師」を見つける訓練が必要です。「私は、この人から学ばなければならない」と感知して、弟子入りする(ぐらいの)能力。そのような能力はお金では決して買えないし、簡単に手に入るものではありません。ですが、それを身に付けるヒントはいくらかあります。1つはよく周りの大人を観察すること。自分の周りにはどんな「大人」がいるのか。残念ながら、そこには「成熟した大人」が1人も存在せず、全員が「大きい子ども」にしか見えない場合もありますが、もし「この人、気になるな」と思った大人がいたら、自分から積極的に話しかけてみましょう。大人がいない場合は、学校の図書館にある本をたくさん読んでみましょう。「あ、こういう大人には近づかないほうがいいんだな」というフィルターを自分の身体に涵養することも諸君の1つの課題なのですから。
どうして次世代を担う諸君にこんなに熱弁を奮っているのかというと、皆さんに成熟した大人になってもらわなければこの社会にますます反知性的な人たちが増えていくと思うからです。
これは大人の我々としても強く危惧していることなので、これ以上「大きな子供」が増えないようにしたいのです。皆さんがそういう「大きな子供」よりも先に大人になってください。素直な心でそうなろうと頑張っていると、自然と周りの大人たちは力を貸してくれるはずです。(もちろん、僕はそういう子供たちを見たら、おいしいご飯をご馳走してあげたくなります!笑)

この投稿を見て、「学校で習ったことなんか何の役にも立たねーよ」とか、「何言ってんだコイツ」と思った人がいるかもしれませんが、いやそういうことを言っているんじゃなくて、私はこれから(まっすぐに育とうとしている子どもたちのうちから)あなたのような人たちが増えるんじゃないかと危惧しているわけです。少しは、お分かりになったかな。まあ、たぶん、あなたにはこの文章で言っていることはご理解いただけないであろうが、まあそれも仕方がないでしょう。
だって、この文章は「成熟した大人」、あるいはそうなろうとしている「小さい大人」に向けて発信しているのであって、決して反知性的な「大きい子供」に向けて発信しているのではないのだから、(あなたが悪いというわけではなく、本当に)それで良いのですよ。
私は「小さい子ども」だけでなく、「大きい子供」にもモラトリアムの時期が必要だということは社会的な合意形成が(私が想定している「大人」の間では、たぶん)なされていると思っているので、あなたにメッセージは伝わらなかったとしても、何も心配することはありません。
(なんか、「お尻」の部分を一生懸命親切に書いたつもりが、どう見ても「悪口」にしか聞こえないですね。。態度が悪くてすみません。)

最後に余計なひとことを言ってしまうのが、どうも私の悪い癖のようだ。真っ赤な口紅が似合うあの人に、今度このことを相談しないといけないなぁ。

Kさん、今度僕の相談に乗ってください!笑

(2024-07-27)