(2024-10-27)
これまで、家庭教師としての活動を中心にこのアカウントで文章を発信してきましたが、先日にある女性の方から「発信するなら、アカウントに役割を持たせて発信するといいですよ!」とのアドヴァイスを受けたので、今後はその助言を頼みの綱として渡って(書いて)いきたいと思います。
いつもお世話になっている方や既にお会いしたことがある方は耳にタコかもしれませんが、普段発信している文章は一人称を「私」にして、文体と語彙は高校の現代文の教科書に掲載されている評論文と同じ程度にして書いてきました。
「できれば次世代を担う10代の方にも読んでほしい」という思いも込めてそのようなスタイルをとってきたのですが、今後は家庭教師を中心とした文章は他のメディア(noteとか?)に書いていこうかしらと思っているところです。
(ここからは余談です。)
なぜ、現代文の教科書と同じ文体や語彙にして発信しているのか。
もちろん、家庭教師としては「万が一自分の担当している生徒やまだ出会ったことがない10代の方が読んだ場合には、そのまま読んだ内容が受験対策になるようにしたい」という意図もありますが、それ以上に「運良く誰かに自分の文章を読んでもらえた時には、その読者の知性を信じている」というのが一番の理由かもしれません。
「読者の知性を信じる」とは、「自分の文章を読む人は学ぶ力を持っているだろう」と思って文章を書くこととだいたい同じ意味合いです。
今に始まったことではありませんが、日本でベストセラーになるような本を読んでいて感じるのは、ページ数が多い割には中身がスッカスカだということです。そういう本がよく市場(書店)では売れるようですが、そのような類の本で書かれている表現からはどうも「あなたに(も)わかるように発信してあげますよ」という一方通行的で不快なメタ・メッセージを含意しているような気がしてならないのです。そういう匂いを感じるときにはどうしても「この著者は読者の知性を信じて文章を書いていないんだな」と思ってしまいます。
人間には、わからない情報を「わからない情報」として維持し、それを時間をかけて噛み砕くという先送りの能力が備わっています。
しかし、勉強してない生徒たちをよく観察してみると、どうやらその「わからないもの」をわからないままに維持して、それによって知性を活性化するという人間的な機能が低下してるような印象を受けます。
わからないものがあっても、「その人たち」にはどうやらそれが気にならないらしい。
何かの文章を読んでいる時、知らない言葉に出会う事は僕にもよくあります。そして、知らない言葉でも「そのまま知らないままでも良い言葉」と「これは知っておかないとまずい言葉」の区別ができる。不思議なものですが、「これは知らない言葉だけど、知らないとまずいような気がする」言葉と、「これは知らない言葉だけど、知らなくても大丈夫」ということの区別がつきます。知らないとまずい言葉については、知っていそうな人に「これ、どういう意味なの?」と聞いたり、家に帰ってから辞書を引いたりして(たまには検索したりして)、その「穴」を埋めていく。🕳️
けれども、今の若い人たちは、その「穴埋め」作業をどうやらしていないらしい。(昔の自分もそうだったので、今になってみるとこの事態の深刻さがよくわかります。)
自分がわからない言葉が、明らかに彼らを読者に想定しているメディアの中に出現してきても、それが気に入らなくなっている。もしこの文章を読んでいるのが10代の方であるなら、高校の教科書に出てくる言葉というのは明らかに君たちを読者に想定して書かれているものなのです。
僕は「その言葉がわからない」ことより、この「わからないことがあっても、気にならない」ことのほうに社会的な(あるいは人類的なと言ってもいい)危機の兆候を感知するのです。
明らかに自分を読者に想定して発信されている言語記号(10代なら国語の教科書に出てくる言葉とか)が意味不明であっても、とりわけ不快を感じない。そういう独特な感受性の構造が、いつのまにか(おそらくここ30年ぐらいで)若い世代の間に根付いてしまったらしい。
どうしてこんなことになってしまったのか。そこに僕は興味がある。
学力低下の危機的大要素の1つは、先程も書いた通り、子供たちが自分たちには学力がないとか、英単語を知らないとか、論理的思考ができないといったことを多少は自覚していても、そのことを特に不快には思っていないという点にあります。
少なくとも家庭教師として言えることは、今のうちに学ぶ力を身につけておきなさいということです。
【続き】
そう言うと、必ず「学ぶことに何の意味があるんですか?」という「子ども」がいます。
そのような問いを口にする人は、「学ばずに大きくなってしまったがゆえに、現在も苦しんでいる人」の存在にリアリティを感じないだけでなく、他でもない自分自身が「学ばずに大きくなった人間」になる可能性を少しも勘定に入れていません。
(もちろん、私だって日本のような豊かな国に生まれてくることができなくて「明日生きられるかどうかもわからない」ような環境で生きている人たちに向かって「学べ、勉強しろ」などとは言わない。というか成熟した大人なら皆そんなバカなことは言えない。)
もう一度言いますが、「学ぶことになんの意味があるのか」と問うような小(、中、高、大)学生や社会集団に一定数の割合で含まれる「大きい子ども」は、自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような想定外の問いを口にすることができるのです。
だから、「いいから、黙って勉強しなさい」という大人はいいアドヴァイザーなのです。
(2024-10-27)