(2024-11-04)
「○○パ」というのが最近の流行らしい。
当人が意識しているか否かにかかわらず、日本人全体の傾向として「最小のコストで最大のリターンを得よう」とする人がここ20年ぐらいの間に増えたような気がする。
少しだけ例を挙げてみよう。
私がこれまで見聞きしたことがある例としては、
⚫︎コスパ(コストパフォーマンス)
→限られたお金を有効に使う
⚫︎タイパ(タイムパフォーマンス)
→限りある時間を有効に使う
⚫︎リスパ(リスクパフォーマンス)
→失敗してもいいリスクをとりながら試行錯誤して経験を積む
などがあるが、この3つの例から以下のような「例」も造語として挙げられるだろう。
⚫︎情パ(情報パフォーマンス)
→有用な情報をなるべく少ない量で手に入れようとする
⚫︎言パ(言語パフォーマンス)
→少ない言葉や文字数で有効な情報をインプット・アウトプットしたり、他者に情報を伝達する
⚫︎物パ(物資パフォーマンス)
→少ないモノで生活を充実させる(俗に言う「ミニマリスト」と同じようなイメージかな)
⚫︎サビパ(サービスパフォーマンス)
→最小限のサービスを受けて満足のいく買い物をしたり、日常生活を充実させる
⚫︎ノウパ(ノウハウパフォーマンス)
→少ないやり方・手順で効率よく物事をこなす
⚫︎脳パ(脳の?パフォーマンス)
→なるべく少ない脳の負担(ストレスや労力など)で知識を増やす(そんなことができるのかは分からないが。)
これらは、たった今私が勝手に曖昧に定義しただけなのでそのような類の「〇〇パ」が世の中の傾向としてみられるのかは定かではないが、おそらく日常生活のあらゆる場面で「効率」を求めるようなイデオロギーが世界同時多発的に発生しているのは間違いないだろう。(特に「脳パ」に関しては書いていて苦笑してしまった(だって、そんなものを人間が求めてどうする?)が、一応メモとして残しておいた。)
いずれにしても、共通しているのは「最小(最短)の量で、最大の成果を求める」という思想である。
はっきり言おう。
これらはすべて、短パ(短期パフォーマンス)である。
受験勉強やアルバイトなどの「期間が短い取り組み」やビジネスの現場では使えるかもしれないが、私は「人生で大事なこと」には使えないと思う。少なくとも、そのような「〇〇パ」で長期的に有用だったと思える事例を私は1つも知らない。
これまでにそのような「○○パ」を極めていらっしゃる方に何人もお会いしたことがある。しかしながら、「この人、面白い!」と思えるような人は一人もいなかった。
誤解してほしくないので念の為に書くが、「○○パ」を極めることが悪いと言うつもりはもちろんない。むしろ、それを有効に活用できる場面ではどんどん使えばいいと思う。私が「一人もいなかった」と言っているのは、それを(例えば)私的な人間関係の領域にまで極端に拡張し、過度に適用しているような人たちのことである。(少なくとも、私はプライベートな人間関係にまで「効率」を求めて「(自分にとっての)最短で最大の成果(人間関係)を得よう」とするような人とは友達にはなりたくない。)
例えばセールスなどの場面において、生身の人間を相手に「私にとっての効率」を求めすぎて過度に接近してくる営業マンにはどんなに鈍い人間でもさすがに違和感を覚えるものだろう。
しまった。また若気の至れり尽くせり(「若気の至り」というやつ)で、こうはっきりと公言してしまった。
ここから先の文章がどう展開されるか自分でもわからないが、読者に向けては「情理を尽くして語るべき」だと思っているので、今から思いつきの事例を1つ紹介したい。ちょっと長くなりそうだけど、書くぞー。
昔、『つくってあそぼ』というテレビの教育番組(NHK Eテレ)があった。(今の10代の方はわからないかもしれない。すまない。)
NHK EテレはNHK教育テレビの愛称であり、世界初の教育専門チャンネルである。
この『つくってあそぼ』という番組は1990年から2013年までの23年間続いていたが、同番組では久保田雅人さんというデザイナーが「ワクワクさん」として活躍していた。
先日私が見たネット上のバラエティ番組(その番組には久保田雅人さんがゲストとして登場していた。)では、「教育番組とバラエティ番組の番組構成の違い」が紹介されていた。久保田さんは「ワクワクさん」として活躍した後にバラエティ番組の出演するようになってから、その番組作りの違い(特にスケジュール)に戸惑ってしまったようである。
(私が見たネット上の番組では、「Eテレと民放の違いについて行けず、バラエティが怖くなった」と話しており、バラエティでは「ビクビクさんでした」とジョークを言っていた。)
Wikipediaに『つくってあそぼ』の制作体制が書かれていたので、ここではそれを引用したい。
[制作体制]
1本の制作に3日かけている。木曜日に工作の打ち合わせ・リハーサル・練習を行い、久保田がヒダから工作を教わる。金曜日に全体の本読み・立ち稽古を行い、時間内に収まるかを計る。土曜日に本番を行い、スタッフの打ち合わせなども含め、7時間かけて収録していた。その中で3・4回撮影するのは当たり前だった。
(Wikipedia「つくってあそぼ」より)
久保田さんが経験してきた教育番組では 、15分の放送を1本収録するために3日間かけられていた。もちろん、リハーサルでは本番通り作っていた(工作していた)ようだ。
私が小学生2年の頃、この番組は平日の午前10:30ぐらいから放送されていた。そのため、父がHDD録画してDVDに焼いてくれたものを繰り返し見ていた。そして、よくこの番組の工作をそっくりそのまま真似して自分で作っていた。
当時はそんなことは知りもしななかったが、NHK Eテレではナレーションの言葉遣いや言い間違いが厳しくチェックされるようである。おそらく、子どもに与える影響について教育的な配慮がなされていたのだろう。
一方、バラエティ番組では本番直前にその場で10分ぐらいパパッと打ち合わせをして即本番、収録完了となることが多いそうである。
サッと終わる打ち合わせでは、番組スタッフが芸能人に「どう?元気?...そっか、わかりました。じゃあ、いつも通りお願いますよ!」と言って収録が始まるのである。さらに、ロケでは打ち合わせすらない場合もあるという。
普段私たちが視聴者として何かの番組を視聴するときには、もちろん今書いたような細かい背景までを考えて見ることはない。だが、ここ数十年のテレビや新聞などの日本のメディアの衰退ぶりを見れば、どちらのコンテンツが視聴した人にとって長期的に有用であるかは火を見るよりも明らかだろう。
私はここでバラエティ番組の悪口を言いたかった訳ではなく、教育番組の構成との違いを示すために都合よくバラエティ番組を引き合いに出した。
ここで言いたかったのは、『つくってあそぼ』を見て工作に夢中になったり、それがきっかけとなって工学の勉強に興味を持った人は少なからずいたであろうし、そのような人は子ども時代にその番組を見る前に「工学ができるようになるために見よう」といった合理的な判断をしてから視聴し始めることようなことはなかっただろうということである。
ここで重要なのは、バラエティ番組を見る人は「この番組を見たら面白いだろう」と思っているのに対して、教育番組『つくってあそぼ』を見る幼い子どもたちは「大学で工学の博士号を取るために、今のうちに工作をやって少しでも得意になって、将来の勉強の負担を減らしておこう」などといったことを考えてから見てはいないということである。(いや、もしかしたら今の時代には結構いるかもしれない。)
もし何かの教育番組に対して「この番組を見たら面白いだろう」と思ってそれを子どもたちが見始め、「あー、面白かった」といって見終わったら、それはただの消費である。ここで行われているのは、「番組を見る時間」というコストと「面白かった」という満足の等価交換である。
同様に、「大学で工学の博士号を取るために、今のうちに〜しておこう」と考えてから視聴し始める幼い子どもがいるとしたら、それは「番組を見る時間や工作にかかる苦役」である「コスト」を「工学の博士号をとるのに必要なスキル」と等価で交換しようとしている。
少なくとも、それは学びではない。
それに対し、同じ教育番組を見て工作に夢中になったり、それがきっかけとなって工学の勉強に「結果的に」興味を持った人は番組を見る前には「見た後の遠い将来のメリット」を1ミリも考えていない。
言えるのは、「あとから振り返ったときに、あのと時の番組視聴や工作は学びだった」といったことだけであるが、それは長い年月が経った後に「事後的に」言えるかどうかである。(当然、それが言えない場合もたくさんある。)
これは、必ず「事後的に」言うことになる。
後付け的に「そんないい発見ができるとは想定していなかった」とか「今までわかっていなかったことが、今わかった!」と言ってしまうような怪我の功名的な結果を産んだり、「新たな発見を生む行動やその種まきを日常的に行っていた」と事後的に言うしかないのが「学び」である。
「何バカなこと言ってるの?
俺が(あるいは私が)やっているのは消費なんかじゃねーよ。投資だよ」
と言う方がいるかもしれない。
このように言われると私は絶句してしまうかもしれないが、このように学びを投資(や消費)と同質的に捉え、自己を経済的な主体として確立するという「はじめの一歩」が最初で最大の「ボタンの掛け違い」ではないかと思う。
自己を経済的な主体として確立した人間は、誰かから「投資的な」話をいくつか聞けばその中から「すぐにその結果についてのリターンがあるような取り組み」を積極的に行う。あるいは「自分にとってのメリット」があることを「行動する前に未来を想定した、逆算的かつ戦略的な投資」と捉えて「自己投資」をする。このようなビジネス(や経済)の用語(やロジック)を使って教育や学びについて語る人のことを私は信じない。
ビジネスの用語を使って教育や学びを捉える人間は、教育や学びの場において経済的な主体として立ち振る舞う。それは消費主体としての振る舞いと同質のものである。
消費主体(あるいは投資主体)として教育番組を視聴する子どもたちはバラエティ番組をゲラゲラと笑いながら視聴する(消費する)大人と同じである。
もう一度言うが、それは学びとは言わない。
おー、だんだん話が元に戻ってきた。
私が仮説として考えているのは、「『〇〇パ』を求めるようなイデオロギーは、消費主体としての振る舞いに由来しているのではないか?」というものである。
そう考えると、話が噛み合ってくる。
冒頭で私が短パ(短期パフォーマンス)としていくつか出した事例には「最小(最短)の量で、最大の成果を求める」という思想が共通している。私はこの「〇〇パ」のようなパラダイムにおいて、なぜ「最短で最大を目指す」というように思考の時間軸が短くなっているのかずっと気になっていたのだが、消費主体としてのロジックを適用すれば話はすっきりする。
消費主体が市場で行うのは「等価交換」である。
そこに「想定外の発見」や「新たな学びの窓」は決して開かない。
私が「〇〇パ」を過剰に極めている人に対して抱いていた違和感というのは、おそらく「消費主体としての振る舞いが過剰になりつつある」というものであろう。
確かに、少ない消費で日常生活を充実させることができれば「お買い得」だから、消費者としての振る舞いとしては賢いと言える。
だが、世の中には消費主体としてのロジックが適用できないものがある。
「学び」というのがその1つである。
これは、冒頭で書いた「短期パフォーマンス」とは真逆の「長期パフォーマンス」である。
学びについて、私の塾講師と家庭教師の経験から言えるのは、算数・数学を例にとれば
・中学1年生の数学で躓く生徒は、間違いなく小学校の算数が理解できていない
・高校1年生の数学で躓く生徒は、中学校までの数学ができていない
というものである。(まあ、当たり前か。)
皮肉なことに、「算数を勉強して何の役に立つんですか?」と問う小学生も、「数学を学んで何の役に立つのか?」と問う中(高・大)学生も、「そのような問いを発する」ということ自体が「自分の未来を(極めて安いコストで)売り払っている」ということを自覚できない。
(例えば、中学1年の時点で「小学校の算数やっておけばよかった」って思ってやり直したら、直前の6年分の復習が必要になる。「中学の数学ちゃんとやっておけばよかった」と思って勉強をやり直そうと決めた高校1年生は直前の3年分か9年分の復習が必要になる。)
まだ「数学」という言葉もわからないような小学1年生には「勉強すると、こんないいことがある」というような「エサで釣る」ような利益誘導方式は採用しないほうがいいと私は思う。
答えなくてよい問いや答える必要がない問い、ましてや答えがない問いには答える必要はない。
(これまでに相談された保護者に対しては、「『君からのそのような問いは想定していない』と絶句してもいいし、『黙ってやりなさい』と言ってもいいし、『それは学んだ後にわかるよ』と言ってもいいと思いますよ」と答えてきた。)
小学生1年生で、小学1年生の内容を勉強するときに躓く生徒はほとんどいない。これは一例に過ぎないが、このような学び始めのシーンで、「どのような問いを発するのか」や「リターンが見込めないような『商品』なら買わないよ」という消費者マインドが身体化されているか否かがその子どもの「その後の長期間」に渡ってかなり影響すると私は思う。
(だから、教室で先生の指示や「黙って勉強しなさい、読書しなさい」という大人のアドヴァイスを(「とりあえず」でもいいので)よく聴きましょうよ、と言いたいのである。この文章を「黙って」読んでくれる「子ども」たちが少しでもいるといいのだが、担当した生徒でこういう文章を読んでくれる子は僅かだった。ちょっとは読んでよね。)
これまで家庭教師やその他の機会に教育のことで困っていらっしゃる保護者の方に何か相談されたときにも、これまで書いてきたことはかなりたくさん話してきたが、最近はネット上でも同じような内容の「お話」を発信したらどうなるのかな?という興味もあったので、私はこういう文章を書いている。
その際は、『つくってあそぼ』で学んだ経験を活かして、自分の現実に起こったことの何千分の一の状況を「切り貼り」して、多少の「嘘とホラ」を交えて、ネット上で「家庭教師としての人格」として発信するようにしていた。
すると先日、自分の文章を読んだある人から「あんなにプライベートな内容を公開して大丈夫なんですか?」と言われたことがある。「あんなに自分のことをさらけだしていいんですか?」とたずねた方もいた。私がネット上であれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもったのだろう。
あのね、私がネット上で「私」と言っているのは「ネット上の私」なの。これは私がつくった「キャラ」なの。
あそこで私が「〜した」と書いているのは、上でも書いたけど私が本当にしたことのうちの0.001%ぐらいを選択し、配列し直し、さまざまな「ジョーク」を混ぜてつくった「お話」なの。「私は」と語っている「私」は、私の「多重人格のひとつ」なのだよ。だから、「大丈夫」なの。
そういう簡単なことが分からないひとがたくさんいる。
私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。私は匿名で発信する人間が嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルではなく、「本名の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているそのひとの妄想のありかたが気持ち悪いのである。
私は自分の書いた文章を本名で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな唯一の存在」だと思ってなんかいないからである。
(実は、この投稿を含めたLINE VOOMで書いている文章はまだLINEの友達しか見られない設定になっております。今後、いつか自分のホームページを作って、そこに自分の文章をネット上でまだ出会ったことがない人に向けても(本名でも大丈夫そうだったら)発信しようと思っているので、今はその「練習」みたいな感覚で適当に書いているんです。この文章を読んでいらっしゃる皆さんは私の本名をご存知だと思うので、ご興味のある方は今後ともぜひこの「ブログもどき」の文章をお読みください。)
すまない。また、話が脱線してしまった。
話を戻そう。
消費と学び、そして「短期パフォーマンス」と「長期パフォーマンス」の話だった。
(えーい、もう簡潔にまとめちゃえ。)
受験勉強などの短期間で終わるような取り組みは別だが、学びに「効率」を求めてもあんまり意味はない。(全体的に学力が低下している状況では、相対的に「上位」になるぐらいしか勉強しなくて済むのだから、そんなに勉強しなくたって受験に合格することも可能である。)
もっと言えば、「効率の良い学び」も「効率の悪い学び」もないと私は思っている。
あえて冒頭で書いた表現を使うなら、長パ(長期パフォーマンス)を極めなければならない。
あー、もう書いてて嫌になってきた。
「(漢字一文字)+パ」というコトバを使って説明しながら書くのを私の手が嫌がっている。
このような言葉を使って説明するのはもうよそう。
長い期間(数十年とか、死ぬまでの時間とか)では、自分の「外側」から思いもよらないノイズがどうしても入ってくる。非生産的で「無駄なこと」もあるが、長期間で重要になるのは「仕事をしたり、何かを想像したり、何かを創造したり、愉快な仲間(良い人間関係)とともに時間を過ごしたり、親族に挨拶に回ったり、子育てをしたり、介護をしたり、...」など、すぐに「成果」が得られるようなものばかりではない。
いわんや研究開発の仕事においてをや、である。
ずいぶん話があっちこっちに飛んでしまった。
ここまで書いてきた長い「お話」をひとことでまとめると
「〇〇パは、(消費主体としては有用であるかもしれないが、)『人生で大事なこと』には使えない」
とというものであり、それが現時点での私の見解である。
私は自分のことを「まだまだ未成熟で修行不足」だと思っているので、今後において上記の主張が修正されて自分自身の考え方が変わる可能性はある。
しかし、今後しばらくは(少なくとも、これまでお世話になった先生や尊敬する人にご指摘を受けない限りは)ないだろうと思う。
(2024-11-04)