(2025-04-11)
昨日はYちゃんと一緒に、KさんとSさんのダンスショーを鑑賞。Yちゃんにはダンスショーの観戦のマナーとして色々と「指導」を受けた成果もあり、今ではダンサーの衣装にスッとチップを滑り込ませる術を体得している。ダンスショーの後はSKYの美女3人と「女子会」のように一緒におしゃべり。あっという間に食事用のテーブルが「お口のダンスステージ」に変わってしまった。女子会ってこういう感じなのね、と一人で訳の分からない納得をしながら最後のグラスを一気に飲み干す。「ダンスステージ」から降りた後の「余韻」を感じる。おかげさまで、四人の卓上も「桜」が咲いたように盛り上がった。(Kさん、Yさん、昨日はお疲れ様でした!)
(ここから本題)
『貧困と脳』(鈴木大介著、幻冬舎新書)を読む。
身体的な疲れとは別の「脳の疲れ」について何か面白そうな本がないかしらと思っていた矢先に手にとった本だったが、まえがきの「なぜ即座に動かなければ一層状況が悪くなるのが目に見えてわかっている場面で、他人事のようにぼんやりとした顔をし、自ら動こうとしないのか?」というフレーズにギクっとする。
あー、これは自分のことだなと思い、結果として著者から講義を受け、指導を受けるようなイメージで読み進める運びとなった。
本書は「貧困者=働けない事情を抱えた者に対する自己責任の払拭を目指すと同時に、働きづらさを感じている当事者が『なぜ自分がその不自由さを感じるのか』の解像度を向上させること、身近に働くことに困難を抱える当事者のいる家族や友人や知人が叱責や失望ではなく、その困難を理解すること、そして状況からの脱却を共に考えること」(75 頁)を目標にして書かれている。
脳の疲労が肉体的な疲労と異なるということは、特にここ数年ではよく実感していたものだった。身体的な疲労の場合は、その日にぐっすり寝れば翌日に疲れがとれる。前日に激しいダンスをしても、おしゃべりに夢中になって口の筋肉を酷使しても、次の日に目を覚ませばその疲労は軽減している。これはわかりやすい。
だが、本書で語られる「脳の疲労」はわかりにくい。私の場合は、ITの勉強を進める中で感じていたことと重なる部分が多かった。「なぜ、周りの人は簡単にできているのになぜ自分はこんなにポンコツなのか?」「なぜ、このソースコードのエラーを修正するデバッグの作業にこんなに時間がかかってしまうのか?」
挙げればキリがない。
今の私は、自分である程度考えて解決できない問題はすぐに人に聞いて解決することが多い。
一人で頑張らないと行けない状況であれば、スペックの低い私の脳ではとても時代について行けないだろう。その部分を人的ネットワークで補っている部分が多いので、ネット上で自己責任論を唱える発言者には何も言えない。
ちょっとだけ自己責任論者に対する悪口を書いておこう。彼ら彼女らの主な主張は「私たちはこんなにも努力して苦境に抗っているのに、同じ努力をしないあなたが貧困なのは自己責任だ」というものである。自らの努力で苦境に立ち向かっているのに同じ状況で努力をしない(ように見える)者に対する辛辣さは年々増しているように見えるので、私はそもそもそういう発言を目にしないための「自助努力」をしている。(これが最近読んだビジネス書に書いてあった「上流思考」ってやつなのかな?)
誰でも「働こうにも働けない脳」になってしまうリスクはある。実際にその状況になった際に、預金や支えてくれる存在を始めとする様々な資産・資源がなければ、人はたやすく「低所得」ではなく抜け出せない「貧困」のスパイラルに陥ってしまう。そして、その資産も資源もいっそう希薄になりつつあるのが現代である。
これは誰にとっても対岸の火事ではない。
私が自己責任論者に対して感じるのは「自分がもしその状況に陥ったら『そうなったのはお前の努力が足りないからだ。自己責任だ!』という言葉しかもらえないからそういう主張をするのはやめといたほうがいいんじゃないの?」というものである。少なくとも、私はもし自分が苦しい状況に陥ったときには周りから「自己責任だ!」と言われるよりも「何か手を貸しましょうか?」と言われるような社会で暮らしたい。(今はまだ「何か手を貸しましょうか?」という側ではあるけれども。)
あー、こんな投稿したらまた「イジチさんって中身おっさんですよね」とか言われそうだな。
(2025-04-11)