伊地知のコモンズ=センス

『1984』と「略語」の相関について


そう言えば、昨年の4月は(遠い昔に家庭教師として指導を担当していた)埼玉の2つのご家庭と久しぶりの再会を果たし、皆で一緒にインドカレーを食べていた。
小学3年生のときに指導を開始したSくんとYくんは、中学3年生になっていた。小学5年生で指導を担当したMちゃんは高校生になっていた。
数年ぶりに会ったが、みんな当時と全く同じような雰囲気で楽しく談笑しながら、我々大人たちは3人の学校生活の話に聞き入っていた。もちろん、インドカレーを食べる手は動かしながら。
私が担当した生徒や保護者は、なぜか皆インドカレー好きになっている。
事実は小説よりも奇なり、とはまさにこういうことを言うのだろう。

この2つのご家庭同士を「出会い」を作ったのは私である。
私がまだ当時大学生の頃、片方のご家庭に指導に行ったある土曜日にその埼玉の2つのご家庭同士をZOOMで紹介した。「お母さん」同士は見事に意気投合し、そのままZOOM越しにLINEのQRコードを交換していた。
実はその「QRコード」を提案した私も、「もしかしたらZOOM越しにLINEって交換できるんじゃないかな?」と面白半分で2人の「お母さん」に適当なことを言っていた気がするが、目の前で2人がオンライン越しにLINEを交換できたときには「ほんまに画面越しでもLINEって交換できるんやな」と思った。
その日のお母様同士の出会いから約一ヶ月後の土曜日、午前中に片方のご家庭の指導を終え、そのまま埼玉のあるインドカレー屋さんで2つのご家庭がリアルに出会った。

「こういうことは、なかなか他の家庭教師にはできない芸当であるな」と特に意味のないことを、当時は大学生ながらよく思っていたものだった。
そして、5年以上経った去年の4月、また同じインドカレー屋さんで再会した。

一度くらいは、ふと思い出したことをこうやって書き留めておく日があってもいいだろう。

思い返せば、他にも東京や千葉のご家庭でも「色々なこと(良いこと)」がたくさんあった。懐かしいな。

おっと、いけないいけない。
今回は何も思い出話に桜、じゃなくて花を咲かせに来たわけじゃない。

本題本題。

(ここから本題)
昨日は「若者言葉」についてメモのような投稿をしたが、それらの言葉をもう一度読み直してみると、意外な発見があった。

それは、「文字数の減少」、「単語を省略した造語」である。

例えば、「了解しました」を最近の若者は「りょ」とか「り」と言うらしい。
もちろん全員ではないと思うが、少なくとも私が家庭教師を担当したご家庭の「お母様」からはときどき「うちの子は『了解』のことを『りょ』とか『り』って送ってくるんですよ」と言われたことがある。それも一つではなく、いくつものご家庭から。

この状況について、私が「似ているな」と感じたディストピア小説がある。

ジョージ・オーエルの書いた『1984』である。

この小説では、その世界で使われる語彙が政府によって意図的に減少させられ、「思考そのもの」ができなくなるように「制度設計」されている。
「抵抗する」や「反抗する」、「デモをする」といった言葉やその概念を知らない者は、実際にそのような感情やそれをしようという気を起こすようなことはない。「言語化できないけど、何かモヤモヤした感じがある」という感覚はあるかもしれないが、やはりそれをその世界の個人が自覚して自己の感受性や感情を拡張させていく蓋然性は極めて低い。

この小説で描かれる「語彙の減少」と、現代の若者言葉やネット上で見られることの多い「略語の登場」は、実は似たような状況なのではないかと私は思っている。

あれ?このあとなんて書くんだったっけ?
数秒前まで手が生き物のようにサーっと動いていたのに、今ピタリと止まってしまった。

こういうときは「寝かせる」ことが大事なのだ、と何かの本に書いてあったような気がするのでこのまま寝かせよう。
いや、寝よう。
(まだ途中だけど、一旦ここで筆を置いて、また後日に加筆・修正することにしよう。)

(2025-04-17)