(2025-04-18)
前回、「ジョージオーエルの『1984』で描かれる語彙の減少と、現代の若者言葉やネット上で見られることの多い略語の登場は、実は似たような状況なのではないか」というようなことを書いたが、半分そうでありもう半分はそうでない気がする。
今回は、その「もう半分」について少し書こう。
よく思い出したら、私もこれまでにたくさんの「若者言葉」や「略語」を日常的に耳にし、目にしていた。
なぜよく思い出さないといけなかったのかと言えば、それらが表面的には「若者言葉」や「略語」であっても、その由来となっている本来使うべき日本語のように自然と解釈できていたからである。
例えば、一緒に談笑していた友人が「ヤベェ」って言ったとき。その言葉を聞いた瞬間に、それ自体では意味が通らないような言葉でも、その言葉は良い意味なのか悪い意味なのかはすぐにわかる。まことに不思議だが、「ヤベェ」の3文字だけでそれがおいしいという意味なのか、凄いという意味なのか、情熱的なニュアンスなのか、どの程度の熱量なのかが瞬間的にわかる。普段会話をしていて、私たちはこのような「確かに言われてみれば」な言葉に対してあまり違和感なくコミュニケーションをとることができる。おそらく、ほとんどの日本人ならそうだと思う。
これは、私たちが話しているのが日本語であり、母語だからこそできるのではないかと思う。母なる言語はこのような奇跡的な伝達可能な「記号」を生み出せるものだ、と私は思っている。
冒頭で私が書いた、「現代の若者言葉やネット上で見られることの多い略語の登場が『1984』での「語彙の減少」と似たような状況なのではないか」ということに対して、「半分はそうでない気がする」と思ったのはそのことである。
母語だからこそ生み出せる「記号」とその記号的な言葉の伝達で、伝えたいことがまるで相手の脳内に信号を送ったかのように伝わる。
家庭内で誰かが(わざわざ言うのが面倒だから)目的語を省略して「あれとって」と言えば、その家族の誰かが「はい、これ」と当然のように持って来て手渡す。(この文章を読んでいる人も、これまでにこういう光景を何回か目撃したことがあると思う。)
目的語を代名詞にしても、自分がとってほしいケチャップやビールが当たり前のように運ばれてくるような日常を過ごしていれば、自分たちが実はものすごいコミュニケーションをとっているということにはなかなか気が付かない。
とりあえず、書きたかったのは「母語でしかできないコミュニケーションの形態がある」ということ。(まあ、これは私の勝手な持論なのだが。)
これは、古文を読むときにも同じようなニオイを感じる。
現代の日本人が古文を読むときには、(読み慣れていない人は)文法の知識を必要とすることが多い。しかし、もしタイムマシンで中世の時代に行くことができたら、すぐにはその世界の住人と話ができなくても、しばらくすれば「今の私たちが日本語を話して生活している」ようにそこにいる中世の人々と中世の日本語ですらすらとコミュニケーションをとることができるだろう。
「当時の私たち」も「当時の日本語」を話して生活しているのである。
これが可能なのは、やはりその言葉が日本語であり、母語だからである。
(2025-04-18)