伊地知のコモンズ=センス

『1984』で描かれる〈二重思考〉とニュースピークについて


一昨日飲んだココアのカップを覗いたら、なんと中身が固まってしまっていた。ほんの僅かな量の液体が、まさかこんなチョコレートの残骸のようになってしまうなんて…。
時々、このように机の上に置きっぱなしにしたコーヒーカップを流し台に持って行かず、結果として洗い忘れてしまうことがある。
こうやって記録に残しておけば、もう同じ失敗は繰り返さないだろう。

(ここから本題)
『1984』(ジョージ・オーエル著、角川文庫』を読む。
私がこの小説を初めて読んだのは大学一年の時で、その時はハヤカワepi文庫を読んでいた。
ここ数年、この小説の新しい新訳本や漫画版の本が何冊か出版されているが、この本が出版されたのは1949年であり、オーエルがこの小説を書き上げたのは1948年のことである。
21世紀に入ってから、たくさんの大人たちがこの本について言及するようになった。
「先見性がありすぎる」という評価であり、改めてこの小説を読んでもまさにその通りだなと感じる。
この小説に出てくる「ニ分間ヘイト」は、ネット上で罵詈雑言を吐く人間そのものを連想させるし、テレスクリーンに至ってはSNSなどのプラットフォームや「今使っているスマホそのもの」と言ってもいいかもしれない。私たちが興味がある(と思っている)ような情報しか取り入れなくなり、思考が偏ったり物の見方にバイアスがかかってしまいがちなデジタル空間と、この小説の「政府にとって都合の良い情報を一方的に四六時中流す」テレスクリーンは、個人に与える影響としては非常によく似ているように思う。
出版されて70年以上も経っている今でもこの小説を読んで強烈なリアリティを感じるということは、著者のオーエルは相当な未来の予知能力があったのではないかと思う。

本書では、「二重思考」という概念と「ニュースピーク」というオセアニアの公用語が登場する。
主人公のウィンストン・スミスも二重思考(ダブルシンク)をする場面があり、ニュースピークについて専門家のサイムから熱弁を振るわれる場面がある。私は、このニュースピークの箇所を読んでいるときに前回か前々回で書いた「略語」のことを連想した。

二重思考の説明としてわかりやすい箇所があったので、少し引用する。

「心が〈ニ重思考〉の迷宮へと彷徨い込んでいく。知りつつも知らずにいること、入念に練り上げた嘘をつきつつもまったき真実を意識の中に保つこと、相反するふたつの意見を持ちそれらが矛盾すると知りながらどちらも信じること、論理に反する論理を用いること、道徳を正しきものと主張しつつも道徳を否定すること、民主主義は不可能であると信じつつ党を民主主義の守護者であると信じること、いかなるものであろうと忘れるべきことは忘れ、必要なときにはそれを記憶に呼び戻し、それからすぐにまた忘れること、そして何よりも、この同じプロセスをプロセスそのものにも適用することーこれこそが、この上なく繊細なところであった。意識的に無意識を生み出し、それからもう一度、たった今行ったばかりの催眠行為を無意識のものに変えるのである。〈ニ重思考〉 という言葉を理解するのにすら、〈二重思考〉を使わないといけないのだ。」(57頁)

これは、本書に登場する党からは「現実制御」と呼ばれている。この思想が一人一人に定着すれば、党が押し付けてくる嘘を誰もが受け入れるということであり、結果的にその名の通り「思想犯罪」がなくなるから、思想警察に逮捕されることもいずれなくなる。
ウィンストンはその狭間で葛藤する。
そして、地下にある食堂でウィンストンは言語学者であるサイムからニュースピークについての「熱い講義」を聞かされる。
ニュースピークの専門家であり、今は仕事で「第十一版」の辞書の作業をしているサイムは顔を輝かせ、テーブルの上に身を乗り出して言う。
「第十一版は決定的だよ。(略)ニュースピークは僕たちの手で最終形になろうとしているんだ ー 誰も他の言語を話さなくなったときの形にだよ。僕たちの仕事が成就すれば、君みたいな人々はもう一度頭から学び直さなくちゃいけなくなるよ。たぶん君は、僕たちの主な仕事は新たな言葉の発明だと思っているだろう。でも、全然違うんだよ!僕たちは、言葉を破壊しているんだ ー 毎日毎日膨大な数の、何百という数の単語をだよ。僕たちはこの言語を限界まで切り詰めようとしているのさ。第十一版には、2050年までに死後になるであろう単語は、一つたりとも収録されないよ」(80頁)

ニュースピークは新しい言語の発明ではなく、言語の破壊である。「高い」という形容詞があれば、もう「低い」はいらない。「否高い」でいい。「高い」を強調したければ「加高い」でいい。さらに強調したければ「倍加高い」でいい。これを限界まで突き詰めていけば、最終的に高低の表現はたったの六語で済ませることができる。サイムはこれと同じようなことを本書でも述べ、豪語している。

サイムはさらに言う。
「ニュースピークの目的は総じて、思考の範囲を狭めることにあるというのが分からないか?最終的には思想を表現する言葉がなくなるわけだから、従って〈思想犯罪〉を犯すのも文字通り不可能になる。必要となりえる概念はどれもこれも、たった一語で表現されるようになるんだ。意味がきっちりと限定され、従属的な意味はすべて抹消され、忘れ去られてね。第十一版ではすでに、その目標から遠くないところに我々は到達しているんだよ。でもこのプロセスは、君や僕の死後もずっと続いていくことになるだろう。年々言葉の数は減っていき、意識の範囲も延々と縮小し続けていくんだ。無論今ですら、〈思想犯罪〉などを犯す理由も正当性もありはしない。単なる自己鍛錬と、現実制御の問題でしかないのだからね。だが、最終的には、そんな必要すらなくなるだろう。ニュースピークが完璧になったとき、革命は完了するんだ。(略)」(82-83頁)

ニュースピークの目的は、党が信仰させたいと考えている世界観や精神的習慣を表現する伝達手段を信奉者に与えることだった。さらに、これのみならず、ありとあらゆる他の思考様式を完全に排除することであった。
「革命が完了」した世界では(仮にそういう世界が到来するならば)、政治的および知的自由はもはや概念としてすら存在しておらず、必然的に名称を持たなくなる。異端であることが一目瞭然である言葉の削除とは別に、語彙の削減そのものが目的とみなされており、なくても困らない言葉は断じて生存を許されない。
ニュースピークは思想の範囲を広げることではなく「縮小」することを目的として設計されており、言葉の選択を最小限にまで減らすことが、その目的の間接的な助力となっている。

ニュースピークについてさらに詳しく知りたい方は、本書の巻末に掲載されている論文「ニュースピークの諸原理」を参照されたい。

この小説の世界では、他にも〈二重思考〉を強要するような犯罪まで存在する。例えば、〈表情罪〉など。
(以下、また本文から引用する。)
「緊張した顔のひくつきや、無意識に出てしまう不安げな表情や、ぶつぶつとひとりごとを言ってしまう癖 ー 異常性を感じさせ、何か隠していると人に悟らせてしまうようなものは、全て隠し通さなくてはならない。なにせ不適切な表情を顔に浮かべること(例えば戦争報告を聞いて疑うような顔してみせるなど)自体が、処罰されるべき罪なのである。ニュースピークでは、それを示す言葉まであった。〈表情罪〉という言葉である。」(97頁)

『1984』はかなり怖いSFだが、皮肉を言えば私たちが現在住んでいる世界も徐々にこのような世界に向かって「日進月歩」しているような気がする。
それを止められるかどうかは「私たち」次第だが...。

(2025-04-19)