(2025-05-03)
先月に書いた自分の文章をいくつか読み直してみた。
全体的に、「もしかしたら、自分の知らない人にも書いたものが(可能性は限りなく少ないが)読まれるかもしれない」ことをあまり意識せずに文章を書いていたような気がする。
そこで、私の文章を昔からよく読んでくれていた知り合いに「文章を発信すること」について、「素直に思ったこと」を聞いてみた。
私がいつもと違って珍しく真面目になっていることに驚いたようだったが、先方からいくつか有用な意見をもらった。
なるほど。余計なことを書き足した「字余り」や説明が足りない「字足らず」が、これほど読み手に先入観を与えるものなのかと正直驚いてしまった。
たしかに、「熟練した読み手や推理家は、異なる報道のされ方をしている複数のメディアから情報を収集したときに、一つの事件に対してより真実に近い事実を推論する」というロジックと同じ構造で「読者の情報リテラシーを信じている」といくら書き手が主張しても、ブログのような個人的な文章に関してその理屈を持ち出すことは「豆腐にかすがい」である。
ここで得られた知見としては、「自分はこう書いている」という認識と「相手はこう読んでいる」という認識で乖離や齟齬が生じた場合は、「一旦、自分の認識の枠組み自体はカッコに入れて、自分の主観的な判断のほうは優先させないほうがよい」ということだった。
私は、自分の書いた文章の内容に関しては常に「誤りを含んでいる可能性がある」と思っているが、それは単なる謙遜や卑下ではなく「自己に対してそのような認識を持つ書き手は、そうでない書き手よりも有用な知見を含んだ文章を書く蓋然性が高いだろう」と私が思っているからである。
それでも、自分の書いた内容に明らかな「穴」があっても自分では気が付かないこともある。そういう場合に、もし誰かから間違いや論理的な瑕疵を指摘されたら、素直にその誤りをその都度修正していくしかないだろう。
冒頭に「先月(4月)に書いた自分の文章をいくつか読み直してみた」と書いたが、その中で何個か読みづらいものがあった。今振り返れば、これらは私の「手」で書いたのではなく、私の「頭」で書いたものだった。私の「頭」は極めて愚鈍であるから、こういう文章は「読者としての私」をもってしてもあまり面白いと言えるものではない。後から読み直すと、やはり非常に読みづらい。
このままではさすがにまずいと思い、「先月、このような『”頭”でこしらえた文章』を書いていたときは、いかなる状況であったか」を振り返ってみた。
なんとなくだが、思い出した。
それは「私はそのことについて語りたいのだが、まだ『今の私』はそのことについて語るための語彙を持ち合わせていない」ときに、無理やり「読み手を口説こう」と力が入りすぎて筆を走らせてしまったときである。そういうときに強引に書き上げた文章は「長期的に、読み応えがある」ものとは遥かに遠い場所に位置するものである。
では、そのような「語彙の持ち合わせ」がないときにはどうすればよいのか。
そういう時は、「私」がそのことについて語るための語彙を獲得する時期が来るまでじっと待つしかない。
それはまるでバス停でバスを待っているような感じである。
いつか来るんだけど、いつ来るかわからない。
その時の流れに逆らって、無理矢理「頭で」文章を書こうとすると、先月私が書いたあのような「子供の文章」が出来上がってしまう。皮肉な言い方をすれば、「大人」の文章ではなく「大きい子供」の文章であり、まさに脳が幼児化した賜物である。
私は冒頭に、「自分の知らない人に読まれるかもしれないこと」についても書いたが、そのことについても少し考えてみた。
私は「金を稼ぐ」という目的で自分の文章を書いているのではなく、「自分の文章を読みたい人」や「あ、これは自分宛ての文章だな」と思ってくれた人に読んでもらいたいと思って文章を書いている。
もし知らない人にも自分の書いた文章を読んでもらおうと思ったら、逆の立場になって「自分は、いったいどういう文章なら読みたいと思うだろうか」と考えればよい。
私は基本的にどんな分野の専門家であれアマチュアの書き手であれ、その人が何かを「伝えたい」と思って書いたものであるならば読みたいと思うだろう。ただ、読み始めて文章の意味がわからなかったり、その書き手の「伝えたいこと」がわからなかったりしたら、おそらく読むのを途中でやめてしまうだろう。
「意味がわからない文章」や「伝えたいことがはっきりわからない文章」といっても、そこにはいくつもの種類というものがある。仮に、その文章の「意味」や「伝えたいこと」が全くわからない文章が「黒」で、その対極に位置するの色が「白」であるならば、その二色の間には無限のグラデーションがある。少なくとも、私の中には「白か、黒か」という二進法的な発想の「全か無かの法則」は存在しない。
「意味がよくわからない文章」でも、「この文章は、将来的には必ず読めるようにならないといけないな」と感じる文章がある。その本や文章の書き手がプロであるかアマチュアであるかを問わず、その文章それ自体が「君にはこれから時間を無制限で与えるから、少なくともこの文章を読めるぐらいには大人になりなさい」と私に告げるのである。これまで、私がこのような状況に遭遇した経験は枚挙にいとまがない。
「伝えたいことがわからない文章」にも同じようなことが言える。「伝えたいことは、いまいちよくわからない」けれど、「この文章を書いた人は、なんとなくこういうことが言いたいんだろうな」と身体に違和感なく入ってくるような文章である。こういう文章を読み始めると、その文章内のロジックの厳密性や瑕疵などは既に「蚊帳の外」にあり、「頭」ではなく「身体」を通して読み進めたいと思ってしまう。そして、気が付いたらその文章を最後の一文までもう読み終わっている。そういうものである。
理由はうまく説明できないが、「なんとなく、読んでみたいと思う文章」というものが存在する、というのは確かである。
今回は「自分の知らない人に向けて書くこと」について少し考えてみたが、今の私にはまだはっきりとした知見といえるようなものは発掘できていない。(この問いについては、今後も考え続けていく必要があるだろう。)
現時点で、私が考えていることで「これからもこの考え方はあまり変わらないだろう」と思っていることは、以下の二つである。
・私の書く文章は、読者に向けた「心を込めたプレゼント」である。
・自分の文章を読む読者の知性を信じている。
(2025-05-03)