伊地知のコモンズ=センス

頭に「メス」が入った本


マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[初版]』(平凡社ライブラリー、2008年)を読む。
まだ第一章までしか読んでいないが、冒頭からかなり頭に「蹴り」が入った。そして、私の脳みそがグラグラと揺さぶられた。カール・マルクスという頭のよい人間が170年以上前に書いた論文(の翻訳本)だからそうなのかもしれないが、これほど自分の思考に「メス」を入れられるような本を最近はあまり読んでいなかったのだと改めて実感する。
どうやら、私に必要だったのは本書のような知的に負荷がかかる「メス」だったようだ。

以下、私が読んでいて思わず膝を打ってしまった箇所をいくつか引用する。
マルクスは、こう書いている。

「人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役に立てようとし、その名前、関の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとするのである」(16頁)

この部分を初めて読んだときは「これはまさに『これまでの自分』のことが書かれているな」と思ったものだが、もう少し視野を広げてみるとこの現象は社会のいたる所に存在している。引用の最初の一文だけを独立させて読めば、これはマルセル・モースの『贈与論』とも関連があると感じた。上の世代や周囲の環境から受けた「贈り物」を通じてしか、人間は「自分自身の歴史」を作っていくことはできないのかもしれない。

もう一つ、本書には「革命」について書かれた箇所があった。

「一九世紀の社会革命は、その詩情を過去から得ることはできず、未来から手に入れる以外にはない。社会革命は、過去へのあらゆる迷信を捨てないかぎり、自分をうまく扱うことができない。以前の諸革命は、自分自身の内容に関して自らを欺くために、世界史的追憶を必要とした。一九世紀の革命は、自分自身の内容に到達するために、その死者を埋葬することは死者に任せておかなければならない。以前の革命では言葉が内容を上回っていたが、いまでは内容が言葉を上回っている」(20-21頁)

この箇所を読んだときにも私は「ふむふむ」と唸っていたのだが、一つ考えさせられることがあった。「社会革命は、過去へのあらゆる迷信を捨てないかぎり、自分をうまく扱うことができない」という部分についてである。
この「迷信を捨てる」という行為は、裏から言えば「それは、迷信である」と判断できるだけの知性が要求されるということである。周囲の「内容が言葉を上回っている」社会的環境を察知し、かつ「過去の亡霊を呼び出さず」に「死者に任せておかねばならない」という点で、これは非常に難易度が高い仕事なのではと感じた。マルクスは、私たちに向かって「成熟せよ」と呼び掛けているように思える。そういう意味で、この部分は注目に値する。

最後にもう一つ、少し長いが自戒を込めて引用する。

「ところで、まずまずの観察者なら、たとえフランスの発展の歩みに一歩一歩ついていかなかったとしても、これまで聞いたこともないような醜態が革命の間近に迫っていることを感じ取ったにちがいない。民主主義者諸氏が一八五二年五月二日の恵みの結果を互いに祝いあう、うぬぼれた勝利の映え声を聞くだけで十分だった。一八五二年五月二日は彼らの頭の中では固定観念になっており、千年王国信奉者の頭の中で、キリストが再臨して千年王国が始まるはずの日がそうなっているのと同じように、信条となってしまっていた。弱い者は、いつもながら奇跡信仰に逃げ込み、空想の中で魔法を使って敵を退ければ、敵に打ち勝ったのたと倍じ、そして、間近に迫った未来や、やる気はあるがいまはまだそのつもりはないというだけの行為を、実行せずに崇拝するのに夢中になって、現状がまったく理解できなくなってしまった。互いに同情しあって群れを作ることによって、自分たちの証明された無能力を否定しようとしている例の英雄たちは、荷造りを終え、月桂冠を前借りして着服し、手形市場で名義だけの共和国を割り引かせるのに忙しかった。この共和国のために、彼らはすでにその控えめな気質からこっそりと政府人事まであらかじめ配慮して組織していたのである」(23頁)

最初のほうの「観察者なら、これまで聞いたこともないような醜態が革命の間近に迫っていることを感じ取ったにちがいない」という箇所は、私たちに有用な示唆を与えてくれる。
マルクスは「観察を怠っていなければ、身の周りの醜態を感じ取れる」ことを「革命の間近」の文脈で述べているが、私たちはこの命題を「自分の身の周りのこと」にも適用できると思う。重要なのは、マルクスが「醜態に気づける」ではなく「醜態を感じ取れる」と書いていることである。
世の中には、「はっきりとはわからないが、ちょっと胡散臭いと感じる人」や「なんとなく、読む気がしない文章」というものが存在する。「そうだと気付いて確信したわけではないが、なんか違和感を感じる」というのは、私たちが日常で直感的に行っている判断であるが、マルクスの言う「醜態を感じ取る」というのはまさにこれと似たようなものではないかと思う。
このような「胡散臭い」文章を書いている私が言うのもなんだが、日常ではこの「感じ取れる」感覚を研ぎ澄ませる訓練が重要でないかと私は思う。

引用した箇所の後半を読んだときには、「弱さ」について考えさせられた。
ここから述べる内容は、本書とは全く関係ないことであるが、最後に「弱さ」について思ったことを書いておきたい。

個人的なことを書くが、私は「強い」人間ではない。むしろ、「弱い」人間である。
だから、私の場合はこの「弱さ」をベースとして生きていくしかないだろうと思っている。
「弱さをベースとして生きる」というのは、まだ自分ではうまく言えないが、「弱さに安住する」というのとは違う。
それは、簡単に言うと以下のようなことである。
「私は弱い。しかし、私はその弱さに安住している自分は許さない」
私は将来的には「強い人間」になりたいと思っているので、そのように考えている。

(2025-05-04)