伊地知のコモンズ=センス

「振りをすること」の効用


YouTubeで音楽を聞こうとしたら、スポーツの世界大会の様子をアナウンスする番組(ニュース)のショート動画が流れてきた。
ここ数年はそういった類のスポーツ・ニュースに全く触れていなかったこともあり、「最近はどんな様子なのかしら」とスクリーンとにらめっこをする形で見ることにした。
すると、あるスポーツ選手の発言で興味深いものがあった。対戦相手に勝った日本代表の選手(16歳の高校生)が試合後のインタビューで漏らした発言である。
試合で対戦した相手に対して、「まあ、正直ウザかったんですけど、やってやったぜーっていう感じです」と16歳の彼は豪語していた。

断っておくが、私はその一分ぐらいの報道(ショート動画)を見ただけで、その試合の一部始終を見たわけではない。当然、そのメディアが「生の」情報を編集し、動画の所々を「切り貼り」して作成した動画であるから、私は真実を誤って認識している可能性もある。

しかし、それでも「これは書くべきだ」と思ったことを今から書く。
私は、自分が書いたテクストが読まれることによって「私たちの社会にとって集団的かつ長期的に有用である」か、「この文章を読んだ人の中で、もしかしたら聡明な人が(内容は何でもよいが)何か優れた知見を見出してくれるかもしれない」といったことを念頭に置いてこの文章を書いておりますので、少々お付き合いください。

先程書いた発言に加え、彼は「ゲーム・チェンジ」の際に監督のもとに近づいて「(対戦相手は)頭おかしいっすよ、マジで」とも言っていた。
私はこの二つの発言を耳にしたとき、この選手以外の「それぞれの国の国旗を背負って戦っている」選手たちの中にも「彼と同じようなタイプ」の者たちがいるのではないかと感じた。正確に言えば、「そのようなタイプの人の割合が昔に比べて増えているのではないか」ということである。
私が問題にしているのは、「試合後のインタビュー」という「全世界に向けて発信される」ような場において、「相手の○○が悪かった」とか「相手を打ち負かした」といった発言がなされていたことである。
私は、このような振る舞いが「ごく少数の代表選手」から「その他大勢の庶民」へ拡大し、日本国内で同時多発的な事態として発生し、そのことを目にするのが「常識」となり、それが「優先される態度」となっていくことを懸念している。

私が小学生や中学生の頃、テレビで同じようなスポーツ選手のインタビューを見ていたときは「こういう苦労があったが、チームのみんなに助けてもらって勝てた」とか「相手は強かったが、気持ちでは負けないように頑張った」といった発言をする選手が多かった気がする。どんなに「圧勝」しても「戦った相手」には敬意を払い(あるいはメディアを通してなら払っているように見え)、どれだげ理不尽で屈辱的な負け方をしても「自分の実力が足りなかった」と答えている選手がほとんどだった。
もちろん、多少の「例外」な選手は当時もいたかもしれない。だが、少なくとも日本人で「相手を打ち負かしてやったぜ」といった雰囲気のあるインタビュー受け答えしているスポーツ選手を私はほとんど目にしたことがない。

私は、「その国の代表」という名のもとに世界で活躍するような選手には、少なくともメディアの前では「相手がいかなるタイプの対戦相手であれ、その相手に対して敬意を持っている」という「振り」をしてほしい
もちろん、ほとんどのスポーツ選手たちは実際に対戦する相手に対して敬意を持っているだろうから、そんな蛇足的な仕事なんか必要ないだろう。だが、そうでない選手には少なくとも国民の前やメディアの前では「相手を敬っている振り」ぐらいはしてもらわないと困る
私は、その国の代表の場に「実際には、対戦相手に対して敬意なんかは抱いていない」選手がいてもいいと思っているし、「自分はその才能に恵まれたから、その能力を私利私欲のために使っている」選手が仮にいたとしても(そんな人はほとんどいないだろうが)、「代表を決める場」でフェアな競争を勝ち抜いた者ならば「その代表選手」としてどんどん活躍してほしいと思っている。だが、多くの国民が注目し、次世代の者たちが「その選手をお手本にするかもしれない」ような選手であるならば(「国の代表」ならば、その場にいるメンバー全員にその「可能性」は付されている。)、彼らの「メディアを通して見られる」その振る舞いはもう個人的なそれとは「質」が異なる。

当たり前の話だが、その技術を身に着けたいと思っている人たち(特に、子供たち)に与える影響は、「アマチュアのプレイヤー」よりも「スポーツ選手」のほうが大きい。
そういった意味で、「スポーツ選手」というのは「そのスポーツの技術」だけが「代表」ではないのである。
私が先程、「メディアの前では、せめて"振り"をしてほしい」と書いたのはそのことである。
私たち庶民の「こちら側」に対しては「どんな状況であれ、相手に敬意を持つ振る舞いを貫けないなら、プロやその国の代表には決してなれない」といった"神話"が流布され、そのようなイデオロギーを(それが真実であるか否かにかかわらず)多くの庶民が信じ込むようになったほうが、そうでない場合に比べて暮らしやすい社会になるだろうと私は思う。
その"幻想"が集団的に、そして長期的に機能してくれれば、個々人の能力に多少のでこぼこがあったとしても、私たちはスポーツを「だれでもアクセス可能な形で」愉快に楽しむことができるだろう。
繰り返すが、だからこそ私は「その国の旗を背負う者」や「その分野での能力が突出した者」といった「敷居の高いレベル」から、私たちが誰でも実践できそうな範囲で「相対的に競争で勝てるポジションにいる者」といった「敷居の低いレベル」に至るまでのグラデーションにおいて、その「振りをする」効用を提案したいのである。

今まで書いてきた内容を一言でいえば、「私たちの、私たちによる、私たちのための暮らしやすい社会を、みんなで作りましょう」ということである。

「私」一人だけがこのことを実践しようと思ったら、話は簡単である。(自分の身の周りにいる、そのような「フレンドリーな人たち」に声をかけたらすぐに実現できるし、そのような「恵まれた環境や集団」に既に属している人間であれば、そんな「面倒なこと」は考えずに済む。)
しかし、これを「同じ社会で暮らして」はいるが(私にとっては)「異質の他者」である人間や集団同士が対面した状況の下でそれを実現しようと思ったら「ある一定数」の人間の頭数が必要になる。その種の人間の数が極めて少なく、その「閾値」を超えられない程度のメンバーしか存在しなかったら、私たちの社会は今後ますます「生きづらい」社会になっていくだろう。
くどいようだが、私は将来的にはその「極限値」へと収束していくような社会では暮らしたくないのでこの文章を書いている。

今回書きたかったことはもう上に書いたので、ここからは冒頭の「彼のインタビュー」に話を戻す。
ここまでこの文章を読んでくださっている方はもうおわかりかと思うが、私は(冒頭で)彼を固有名詞的に批判したわけではない。
彼は確かに試合の対戦相手に対して「ウザかった」とか「頭おかしい」と言っていたが、そのような言葉を口にする直前で一瞬だけ「ためらい」の間があった。そのごく僅かな数秒間の間に彼の「体」が少し怯えていたように思う。これは私の勝手な推測だが、彼の身体が彼自身に向かって「そんな言葉は口に出すな」と命じていたのではないかと思う。そして、おそらく、彼自身もそのときの「身体の反応」を後から指摘されても全く覚えていないだろう。彼の頭や意識の世界では「相手を打ち負かしてやったぜ」という(そのインタビュー中では)「愉快」な発言が、彼の身体や無意識の世界では不愉快な発言であり「そういうことは口にしてはならない」といったカテゴリーに分類されたのだと思う。
彼自身の体は、彼自身についてよくわかっていたのである。
実際、インタビュー終盤のほうで彼は「苦しい試合だった」とも言っていた。おそらく、今回の対戦相手は「彼がそれまで戦ってきた相手」とは異質のタイプだったこともあるだろうが、その発言は先に発してしまった「負債の発言」の償いとして彼の口からその言葉が出たのではないかと私は解釈した。これも、おそらく(もちろん彼だけでなく、私たちの)身体に備わっている、意識野には昇ってこない「知恵」なのだろう。
(いろいろ書き散らしてしまったが、彼自身は実際に対面したらものすごくフレンドリーな青年なんじゃないかな。どうなんだろう。)

よし、ひと通り文章の「お尻」までは書いた。(以下は、私が眠い目をこすりながら書いた「蛇足」なので、多少いい加減な書き方がしてあってもご容赦願いたい。)

・・・

(「お尻」までは書いた)が、ここまで書いた内容、というよりは私が抱いた「彼への印象」にもし誤りがあるとすれば、その原因の一つは「メディア」にある。
もし昔と今で選手のインタビューの発言内容がそんなに違わないのであれば、私が先程見たメディアが「相手がウザかった」などの発言(A)を「そうでない」発言(B)よりも優先して「切り取った」ということである。
個人的なことを書くが、私は日本のメディアが全体的に、業界的に10年ぐらい前から不調に陥っていると思っているので、ニュースなどの情報は海外のメディアで得るようにしている。(こういうことはあまり書きたくないが、メディアにとって都合の良い情報だけを選択的に国民にアナウンスし、都合の悪いことを一切報道しないメディアを私は信用していない。)

そういう選手(A)が増えているのか、それとも「そういうメディア」が増えているのか。それとも、ほかに何か原因があるのか。
おそらく、多くの要因が複雑に絡み合ってこのような事態(A)に私たちが集団的に陥っているのは確かであろう。

今回書いた内容を読み、衝動的に「犯人捜し」に必死になって「罰」を与えようとする人はいないだろうが、そのような種類の人たちが仮にいるとしたら、彼らは「まさに、自分たちがそのような知的態度をとっている」ことに無自覚のまま、さらに不可逆的にこの「劣化」を加速させていることに気が付かないだろう。

「そういうことを言っているお前はどうなんだ」という人がいらっしゃるだろう。
ご名答である。
私は「そのような事態に陥ってしまう」という状況に、今まさに出くわして、我ながら絶句するのである。
(まあ、今回の文章は何らかの内容を含んだ「メッセージ」ではなく、文章の読み方そのものを指示する「メタ・メッセージ」なのでその辺は大目に見てもらいたい。)

(2025-05-11)